LOGIN氷河期が完全に終わったのは、今から一万三千年前のことだった。その時点で、人類の祖先たちは既にほぼ全ての大陸に拡散していた。
私が次に目撃したのは、新石器革命だった。
アフリカの草原に、一つの家族が定住していた。狩猟と採集に頼る生活から、初めて、農業へと移行する瞬間。
それは、文明の萌芽だった。
男たちが、棍棒で地を掘り、種を蒔いていた。女たちが、水を運んできて、植えられた種に注いでいた。その時、私もまた、その水の一部として、土中に流れ込んだ。
土の中で、種は発芽した。
根が、私を吸収した。茎が伸び、葉が展開した。穂が実をつけた。そしてやがて、それは穀物となり、人間に収穫された。
穀物が、粉に挽かれ、水に溶かされ、パンとなった。
そのパンを食べた時、一人の少女の頭の中で、何かが起きた。
彼女の名前はナミだった。その部族の指導者の娘で、もう生殖可能な年代に達していた。彼女の脳は急速に成長し、神経細胞の接続が複雑に絡み合っていた。
それは、青年期だった。
ナミの意識が、急激に拡張していく過程を、私は直近で目撃した。彼女は食べ物の味わいを知り、仲間の感情を読み取ることを学び、未来を想像することを覚えた。
「君は何か変だ」
彼女の母親が、ナミに言った。
「他の子たちとは違う。何か深く考えているようだ」
ナミは答えなかった。彼女は沈黙の中で、彼女の内部の変化を処理していた。思考。それは、彼女の人生において、始まったばかりの旅であった。
私はナミの体を何度も巡った。彼女が成長し、知識を獲得し、やがて母親自身になっていく過程を。
そして、十五歳のとき、彼女は初めての子供を産んだ。
出産は苦しかった。だが、その苦しみが終わった瞬間、ナミの目に涙が流れた。その涙の一部が、私だった。
新生児は、母親を見た。
その瞬間、ナミの脳内に、解放の波が流れた。オキシトシン。愛情ホルモンが分泌され、彼女の神経系を満たした。
「ああ……」
ローマの栄光は永遠ではなかった。 帝国は広すぎて管理できず、経済は破綻し、軍事力も衰えていった。四世紀には、帝国は東西に分裂した。西ローマ帝国は、やがて滅びることになる。 だが、その過程で、新しい信仰が台頭していた。 キリスト教。 最初は周縁の民族的な宗教だったそれが、やがて帝国の主流となっていった。そして、やがてキリスト教文明が、ヨーロッパ全体を支配することになる。 その転換点で、私はある女性に関わることになった。 聖母マリア。歴史的人物ではなく、信仰の対象となった人物。けれど、その信仰が数百万の人々の心を支配していた。 キリスト教の伝統の中で、マリアはイエスの母として描かれた。彼女の出産、彼女の苦悩、彼女の愛。全てが聖別され、儀式化された。 やがて、彼女は象徴となった。 理想的な母。無条件の愛。そして、人間的な苦悩を持つ、けれど超越的な存在。 その象徴は、古代ナミから受け継がれた、人間的な母親像をも超えていた。宗教的理想が、生物学的現実に上書きされたのだ。 それでも、その信仰の根底にあるのは、変わらぬものだった。母と子の愛。その愛が、人類の救済を約束するという信念。 中世へ向かう過程で、ローマは衰退した。政治的統一は失われ、暴力と混沌が支配した。けれど、教会は生き残った。むしろ、その混沌の中で、教会の権力は増していった。 精神的な支柱。道徳的な指標。社会的な組織。 教会がすべてを担うようになった。そして、当然のことながら、私はその教会の中にもいた。 聖水。 教会が神聖化した水。それは、私だった。赤ん坊が洗礼を受けるとき、額に垂らされる水。その水の中に、どのような力があるのか。物理的には、何もない。けれど、人々の信仰が、私という物質に、神聖性を与えていた。 それは、奇妙で、美しかった。 純粋な物質が、精神的な意味を帯びていく。人間の思いが、物質を変容させていく。 その現象そのものが、人間らしさの最高の表現だと思えた。
古代の地中海は、知識と商業の中心地だった。 フェニキア人の船乗りたち。エジプトの商人たち。ギリシャの哲学者たち。彼らは全て、私を必要としていた。 船乗りたちは、私で帆を洗い、けがを癒し、渇きを潤した。商人たちは、私で商品を運び、市場で商品を冷却した。哲学者たちは、私を飲みながら、宇宙の本質について議論していた。 特に、アテナイという都市国家は、文明の最高峰を示していた。 民主主義。理性。芸術。 すべての高い価値が、この街に集約していた。そして、当然のことながら、私はそこにいた。 古代オリンピック。その競技場で、若き男たちが肉体の極限を試していた。彼らの汗。その汗の中に、私は含まれていた。勝利の喜び。敗北の悔し涙。全ての感情が、私を通じて表現されていた。 そして、一つの特別な瞬間があった。 ソクラテスが、毒杯を飲む直前のこと。 彼はアテナイで起訴され、裁判にかけられ、死刑を宣告されていた。その理由は、「青年を腐敗させた」という罪状だった。実際には、彼の理性的な問いかけが、既得権益層にとって脅威だったのだ。 獄中で、彼の弟子たちが彼に逃亡を勧めた。彼は逃げることもできた。けれど、彼は拒否した。「法というものが成立するためには、それを尊重する人間がいなければならない。たとえ不正な判決であっても、それに従わなければ、法そのものが意味を失う」 その言葉で、彼の人生に対する哲学を、私は完全に理解した。 彼は、毒杯を受け取った。それは、トリカブト(ニガヨモギ)から作られた毒物だった。その毒物に水が混ぜられていた。その水が、私だった。 ソクラテスは毒杯を飲んだ。 その後、彼の神経系は徐々に麻痺していった。脚から始まり、徐々に上昇していく。彼の思考は、最後の瞬間まで明晰なままだった。「こうクリトン。われわれは、アスクレピウスに一羽の鶏を捧げることを約束していたと思うが。それを忘れるな」 その言葉が、彼の最後の言葉だった。 彼の脳が静止した。けれど彼の思想は、その後の二千年以上を支配し続けた。理
ナイル川。 アフリカ東部を流れ、地中海へと注ぐこの河が、一つの文明を育んでいた。古代エジプト。 私は川として流れた。毎年、定期的な洪水。そのサイクルが、肥沃な土壌をもたらし、農業を可能にしていた。 その川の流れの中で、私は幾千年もの人間の営みを目撃した。 ファラオの栄光。ピラミッドの建設。神官の祈り。奴隷の汗。 全ての階級の人間が、私なしには生きられなかった。彼らは私を飲み、私で体を洗い、私で農作物を育てた。 そして、一つの特別な時代があった。 第十八王朝。アメンホテプ三世の統治下で、エジプトは最高の繁栄を迎えていた。 王妃ティイが、初めて出産する際、私はその産室にいた。産婦人科医(当時はそのような言葉はなかったが)が、彼女の身体を冷やすために、私を使用した。 ティイは、王妃だった。最高権力者の妻。しかし、その身体の中では、ナミと同じく、母親としての本能が作動していた。「強く……」と、彼女は叫んだ。 痛みの中で、彼女の意識は、娘が無事に生まれることを一点に集中していた。 そして、新しい生命が世に出た。 ティイが初めてその子供を抱きしめたとき、彼女の目に流れた涙もまた、私だった。数千年の時間を隔てても、母親の喜びは変わらなかった。 その娘の名前は、アメンホテプ。後の有名なアメンホテプ四世(アクエンアテン)の母親となる子だった。 私はティイとその子供の関係を長年に渡って見守った。彼女は全ての王妃の中でも特に知的で、政治的影響力も大きかった。だが、同時に彼女は、完璧な母親でもあった。 子供の額の汗を拭う。夜中の発熱に付き添う。教育を受けさせ、儀式を教える。 その全ての過程で、愛を示し続けた。 やがて、その子供が成長し、王となったとき、ティイはその子供に言った。「あなたは、この世界の最高権力者です。しかし、決して忘れてはなりません。すべての人間は、母親から生まれた。そして、どのような王であろうとも、母親の前では、いつまでも子供なのです」
氷河期が完全に終わったのは、今から一万三千年前のことだった。その時点で、人類の祖先たちは既にほぼ全ての大陸に拡散していた。 私が次に目撃したのは、新石器革命だった。 アフリカの草原に、一つの家族が定住していた。狩猟と採集に頼る生活から、初めて、農業へと移行する瞬間。 それは、文明の萌芽だった。 男たちが、棍棒で地を掘り、種を蒔いていた。女たちが、水を運んできて、植えられた種に注いでいた。その時、私もまた、その水の一部として、土中に流れ込んだ。 土の中で、種は発芽した。 根が、私を吸収した。茎が伸び、葉が展開した。穂が実をつけた。そしてやがて、それは穀物となり、人間に収穫された。 穀物が、粉に挽かれ、水に溶かされ、パンとなった。 そのパンを食べた時、一人の少女の頭の中で、何かが起きた。 彼女の名前はナミだった。その部族の指導者の娘で、もう生殖可能な年代に達していた。彼女の脳は急速に成長し、神経細胞の接続が複雑に絡み合っていた。 それは、青年期だった。 ナミの意識が、急激に拡張していく過程を、私は直近で目撃した。彼女は食べ物の味わいを知り、仲間の感情を読み取ることを学び、未来を想像することを覚えた。「君は何か変だ」 彼女の母親が、ナミに言った。「他の子たちとは違う。何か深く考えているようだ」 ナミは答えなかった。彼女は沈黙の中で、彼女の内部の変化を処理していた。思考。それは、彼女の人生において、始まったばかりの旅であった。 私はナミの体を何度も巡った。彼女が成長し、知識を獲得し、やがて母親自身になっていく過程を。 そして、十五歳のとき、彼女は初めての子供を産んだ。 出産は苦しかった。だが、その苦しみが終わった瞬間、ナミの目に涙が流れた。その涙の一部が、私だった。 新生児は、母親を見た。 その瞬間、ナミの脳内に、解放の波が流れた。オキシトシン。愛情ホルモンが分泌され、彼女の神経系を満たした。「ああ……」
氷河が溶けて、最初に流れ着いたのは、川だった。 そこは北米大陸の中央部。落葉樹林に囲まれた、清涼な川。その流れの中で、私は再び液体としての自由を得た。 川は生命に満ちていた。 サケが上流へ遡り、トンボが水面を叩き、カワウソが川底を走った。私はそのすべての中を流れ、そのすべてを知った。 特に印象的だったのは、ある小さな哺乳動物――マストドンの群れが、川で水を飲む情景だった。 彼らの体温は高く、呼吸は速く、心臓の鼓動は激しかった。レクスのような爬虫類とは全く異なる、エネルギッシュな生命力がそこにはあった。 私がマストドンの一体の体内に吸収されたとき、その相違は顕著だった。血液は熱く、細胞は急速に分裂し、様々な器官が複雑に協調していた。 そして、最も驚くべきこと――脳。 哺乳動物の脳は、爬虫類や魚類とは比較にならないほど発達していた。特に、大脳皮質と呼ばれる領域は、極めて複雑な構造をしていた。そこで、思考が生まれ、経験が記憶として保存され、未来が予想されていた。 それは、真の意味での「意識」だった。 私がマストドンの脳を通じて感じたのは、深い喜びだった。彼は群れの中で安全を感じ、子供たちの成長を喜び、食べ物の味わいに感謝していた。人間が感じるような、複雑な感情。それが、この生き物たちの中に存在していた。 マストドンは私を何度も循環させた。血液から尿へ、尿から土壌へ、土壌から草へ、草からまた血液へ。その永遠的な循環の中で、私たちは一体となっていた。 数年後、そのマストドンは老齢に達した。その体は弱り、四肢は思うように動かなくなった。最後の冬、彼は群れから遅れ、孤立した。 凍てつく北風の中で、彼は倒れた。 死の瞬間、私はまた彼の脳を通じて何かを感じた。それは、悔恨ではなく、静寂への準備だった。苦しみもあっただろう。けれど同時に、数十年の人生が、彼の中で完結するという満足感もあった。 彼の体は凍った。 私は長い眠りの中で、千年以上、彼の凍結した體の一部であり続けた。その後、また暖かい時代がやってきた。氷河期は終わり、人新世の始まりが、地平線上に見えていた。 マストドン体から解放された私は、また川へ流れ込み、新しい時代へ向かっていった。 その川の先には、火の匂いがしていた。 初めて見た火。人間の火だった。 二足歩行の、毛の薄い、奇妙な生
気体として空を漂う中で、私は最初の「循環」を経験した。 太陽が私を温め、上昇させ、また冷やし、凝結させ、雨として地表に落とした。それは無限に繰り返される。この永遠的なリズムは、最初、単調に思えた。けれどやがて、この循環こそが、すべての生命を支配する基本的な法則なのだと理解した。 ある雨の降り方で、私はとある陸地に落ちた。 厚い植生に覆われた大地。ジュラシ紀から数百万年が経過していた。恐竜たちは消えたが、彼らが支配していた時代よりも、さらに複雑で、多様な生態系が形成されていた。 私は巨大なシダの葉に着地した。 葉は湿り気を帯びており、その温かさが心地よかった。根から吸い上げられる力は、私を引き下ろし、地中へと導いた。その過程で、私は初めて「植物の内部」を知った。 細胞膜を通り、維管束を上昇し、再び葉へと辿り着く。 そこで、魔法が起きた。 光合成。 太陽の光が、二酸化炭素と私(水)を組み合わせて、糖へと変えていく。その過程で放出される酸素は、葉の気孔から空へ逃げていき、私も一部は蒸発していった。 この静寂の中での錬金術は、私の心を揺さぶった。 無機物から有機物への変換。光を物質に変えるこの神秘の過程で、私は「生命とは何か」という問いに、初めて真摯に向き合った。植物は、私なしには存在できない。そして私は、植物がなければ、ただの無意識な液体でしかない。 相互依存。共生。 それが、この星の本質なのだ。 数百年が過ぎた。私は何度も植物の細胞を巡り、蒸発と凝結を繰り返した。その間に、陸上の生命は驚くべき速度で進化していった。恐竜の時代から数百万年。哺乳類が支配的になり、多くの種に分化していた。 そして、ある日の朝のこと。 上空から、ものすごい勢いで物体が降ってきた。 隕石。 それは恐竜たちを滅ぼしたものより遙かに小さかったが、地表に激突した瞬間、一帯の温度が劇的に低下した。空が暗くなり、太陽光が遮られた。数年間、地球は冬の状態が続いた。 生命が減少した。 私は冷却され、雪となり、やがて氷河の一部となった。 その眠りは、長かった。 数千年。いや、数万年かもしれなかった。固い氷の中で、私は時間の感覚を失った。周囲は永遠に白く、冷たく、静寂に満ちていた。他の分子たちも、意識を失っているようだった。 ただ、冷たさだけが、私を存在させていた